BUHI

いろいろ

ゲーム

 久しぶりに仕事以外で文章を書く。仕事をすると無益に何かを考えることが減るから考えも生まれないし言葉も生まれないのだろう。だからか特に書くこともなかった。とりとめなく頭に浮かんだことを書く。

 仕事をしていると改めて道徳観が希薄だと思う。刑事事件であればそれこそ罪と罰であり、民事事件でもあいつが悪いこいつが悪い、家事事件なんてまさにそれこそ罵詈雑言の世界だ。けれども、そんな悪いことかなあ、と思うことが多々ある。他人事なのでどうでもいいということが根本にあるのだろうけれど、道徳に縛られて憤慨している人を見ても共感できることは少ない。道徳は権力みたいなもので、それがバックにあるとみんな強気に自分の権利・利益を主張する。はっきり言って見苦しい。道徳に縛られると驚くほど視野狭窄に陥ることにも驚く。全く周りが見えなくなる。そんな人を見ると改めて窮屈な価値観の中に生きていると感じる。

 もうひとつ、変にクリーンな価値観が蔓延していると思う。取り立てて何がというわけではないが、変わった人に対するものすごい風当たりの強さというか。社会的に低い地位の人と接する機会が増えた。言ってしまえば、ちゃんとした高校大学を出ていたら会わないであろう人たちだ。話を聴いても共感することはほとんど皆無なのだが、そういう人を見ていると人生って苦しいなあと思うことがある。経済的状況がというよりは周りの目がきつい。働けるのに何生活保護受けてんだよ、とか。ああ、あの人犯罪者なんですか、みたいな。そんなことどうでもいいではないか。もちろん犯罪をおかすことは悪いことではあるし、働けるのに働かないのも税金を貪っているという意味では悪いことかもしれないが、そんな他人事どうでもいいではないかと思う。他人には無関心なのに、いざ道徳的に非難できるとなると、逆に関心が高まる。妙にクリーンな価値観が蔓延していて、そこからずれた者に対する視線は厳しいものがある。このギスギス感。

 一時、何のために生きるのかということをよく考えた。友達にも言われたが、こういう抽象的なテーマというのは暇なときこそ浮かぶのだろう。実際的なことばかりしているとあんまり考えなくなった。ただ、最近また考えるようになった。前よりは重々しくはない。

 ゲームのたとえがある。仮に人生をRPGのゲームとする。レベルアップして、何かの目的を達成する。人生もそういうものだ、みたいな考え方。でも、結局死ぬんだから意味がないんじゃないかと思っていた。積み木を積み上げまくっても結局崩れるんだったら意味ないでしょう、と。ただ、改めて考えてみると、死なないわ、無敵状態だわ、何回もプレイできるゲームなんてクソゲーである。

 そもそも人生に先天的に与えられた意味などあるわけがない。積み木が崩れたらパー的思考は、人生に先天的に意味を求める考え方だ。崩れたら終わってしまう「意味」だ。石ころに存在する積極的な意味なんてないのと同じで、人生に先天的に抽象的に意味を求めても何も出てこない。

 かといって、やたらポジティブに人生の意味は自分で作り出すのだ!みたいな考え方もしっくりこない。あるいは、必然性を求めて必然的に生きるのだという考え方もやはり僕には合わない。

 もっと普通にプレイするぐらいの感覚でいいんじゃないかと思うようになった。変に抑圧的になる必要もなく、わりと欲望むき出しで(どういうスタイルかは人の美学によるが)、ゲームをプレイするみたいにやる。ゲームをプレイすれば、RPGであれば、キャラクターは成長し、なんらかの特殊能力を身に着けたり、その特殊能力を活かしたりとなにがしかのことをやる。ゲームをすることに意味を求めないのと同じように、ゲームをやるのは単純にそれをやれば楽しい、というか、暇つぶしになるからやる。

 暇つぶしというと軽い言葉のように思うが、暇つぶしは重要なことじゃないだろうか。究極的にいえばソイレントだけ飲んで、2m四方の箱の中でも何十年かは生きられるだろう。ただ、それは、当然、究極的に苦痛だ。食べる楽しみ、話す楽しみ、人と関係を持つ楽しみ、権力を得る欲望、性欲を満たす喜び、ただ単に生命維持するだけという観点からは無駄なことに気力・労力を費やす暇つぶしこそが生きる実感を与えてくれる。

 そうであれば暇つぶしなんだと割り切るぐらいでちょうどいいんじゃないかと思うようになった。そうした暇つぶしをしていく過程で、自分もなにがしかのものになるだろうし、これこそが自分にとって、みたいなものができるかもしれない。

 なんかどうでもよくなってきたので寝る。