読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BUHI

いろいろ

言い換え

 前にもちょろっと書いたことの続き。

 音楽表現で解釈について考えたことがあった。今考えると言い換えという表現が一番しっくりくる。My name is Bobという文章があって、英語が分からなければ意味のない言葉の羅列だが、文法が分かっていれば「私の名前はボブ」という意味だと分かる。しかし、こんな風に個別個別には意味を持たないものを連関させることは、もちろん、芸術的な解釈ではない。

 言い換えは、意味を理解し、その意味を別の表現に改めるという積極的な働きがある。詩や美しい文学表現だって言い換えだ。単なる現象を観察のレベルで留めずに芸術的な表現に言い換える。ここに芸術的な解釈が生まれる。絵画でも同じだ。見えるものをどう言い換えるか。

 言い換えるには観察するだけでも説明できるだけでもいけない。さらに深い意味・感覚が分からないといけない。これは一見このように見えるけれども、本当はこういう意味・感覚なんだ、という実感がないと芸術的な言い換えはできない。芸術家であったり表現者であったりあるいはその時代の精神によってとらえようは違うだろう。しかし、これは・・・というものなんだ、という実感がないと深いレベルでの言い換えはできない。なぜなら、その人は、目の前に見えるものより先のことは見えていないからだ。表面を超えた向こう側を見たと思い、それをなんとしてでも表現したい、露わにしたいと考えるときに、芸術的な解釈が生まれる。

 このような実感や理解は、究極的に言えば思い込みだろう。時代の空気と勝手な個人的な経験と個人的な美意識から、そういうものなのだと信じているに過ぎない。ただ、そういうものなくして美的な表現は生まれない。同じことは鑑賞者にも言えて、そういうものがなければ、そもそも表現(芸術というには狭いので)を楽しむことはできない。「そうそう、そういうことなんだよ」とか「そういうことなのか」という独特の感動を持てない人には芸術なんてどうでもいいだろう。

 ピアノ音楽、特にクラシック音楽だと楽譜があってそれを再現するという特殊性がある。最初からできたものを表現する、という点だ。ただ、同じことは言える。

 ただ単に和声分析をするとか、モチーフの使われ方を図式的に理解できるとか、楽曲構造を分かっているとか、それだけで解釈は生まれない。この音楽は、この旋律はこういうものなんだ。そういう実感があれば、いかようにも表現できるんじゃないだろうか。

 もちろんその前提として、理解する道具としての理論、表現するための技術は必要だ。ただ、理論だけでも技術だけでもダメだ。ここの旋律は本当はこのように聴こえるべきだ、と楽譜に書かれたことの意味を理解し、自分がそうであるべきと考えるものに言い換えることができるほどの理解・実感があって初めて、まともに解釈と呼べる解釈が生まれるんじゃないかと思う。