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BUHI

いろいろ

モー モー モーパッサン・・・

 最近、寝る前に本を読む。おかげで睡眠不足気味だ。長い本は読まない。最近の小説も読む。ただ、頭には残る本は今のところない。

 モーパッサンの脂肪の塊を読んだ。登場人物の「脂肪の塊」が馬車の中で持参した料理を振る舞うところで、読むのをやめていた。以来、脂肪の塊=馬車の中での食事というイメージがあった。昔の小説に出てくる食べ物って、おいしそうに思える。この脂肪の塊では煮凝りが出てくるが、妙に食べたくなる。

 ドストエフスキーの小説の中でもカツレツが出てくるシーンがある。公務員が誰だかがカツレツを食べる。カツレツを食べる機会自体が少ないが、カツレツ、カツレツと続くと、たまらなくおいしそうに思える。小説ではないが、ヴィクトール・フランクルの「夜の霧」に出てくるパンでも、極限の空腹で食べるパンとはいかほどのものかと想像する。いっそのこと3日ぐらい断食しておにぎりでも食べるか。

 本題の脂肪の塊。読了して、歴史に残る意味が分かるように思えた。なにぶん、人の嫌な部分を描き出すのが上手い。たった数日の出来事で嫌な部分を皆こってりと絞り出される。

 かといって悪人は登場しない。悪徳の金持ちの清き心を持った売春婦という構造ではないと思う。売春婦である脂肪の塊にしろ、もったいぶった伯爵にしろ、キザな革命家気取り(こいつが一番気に障るのだが)にしろ、どれも取り立てて悪人でも善人でもない。脂肪の塊が清い心を持った人間かといえばそうでもない、というより、この長さでは分からない。かわいそうといえばかわいそうだけれども、同情心はそれほど沸かない。

 モームサミングアップの受け売りになるが、凡人は、一貫性を欠く(だからこそ、凡人を観察するのは面白いし、一貫性のある偉人はつまらない、とモームは言う)。一貫性を欠くがゆえに、ときに残酷であったり、ときに親切であったりする。要は気紛れだ。作中の伯爵も、この小説だけ読めばどうしようもない人間に映る。が、彼の人生を全人生を眺めれば、善人であったときもあるのだろう。結局、その場その場の空気や雰囲気で悪人にも善人にもなる。一貫した善人も一貫した悪人も、まずいない。数限りなく書かれたテーマだろう。

 厭世的に世の中を眺めれば、悪いところが目につく。そんな部分のエッセンスを煎じ詰めれば、脂肪の塊の世界観になるだろう。これも一つの真実だと思う。これほど嫌な感じに書かれると、否が応でも人間の嫌な部分に気付かせてくれる。

 この本には共感できる登場人物が登場しない。中心人物はいない。いるのは普通の嫌な人々と哀れな脂肪の塊。脂肪の塊に同情して、共感して、悲劇的に考えるのは能天気に過ぎるように思う。10年前だったらそう思ったかもしれないが。

 「そうそう、そんなもんだよ、人間って。」などと偉そうに同意しそうになりつつ、「君にもそういうところあるんじゃないの」とそのまま自分にブーメランで帰ってくる。そんな皮肉のきいた本でした。