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BUHI

いろいろ

考えること 意味が分かること

 働き出して半年+ちょっとが経過した。いろいろと思うことがあるけれども、一番悩まされるのは、自分の頭で考えること、だ。それも抽象的なことではなく、具体的に、自分の行動に繋がるような考え。社会的知性とでもいうのか。

 書く場合でも話す場合でも考える力は要求される。書く場合は、時間があるからまだいい。話す場合は、瞬発的に考える必要があるから難しい。ただ、いずれの場合でもスタート地点は意味が分かること。誰かが何かを言ったり話したりしているとき、それがどういう意味であるのか解釈するできる能力がないと考えることすらできない。

 AがXをしたとき、ただAがXをしたと平板にとらえてはいけない。人の行動には理由や動機がある。何の理由もなしに何かをする人はいない。なぜAはXをしたのか、動機は何なのか、Xをすることによって何が発生するのか、それはAの状況でどういう意味を持つのか・・・そういうふうに、多面的に事実を見ることができて意味が理解できる。

 意味が分かるとは、言い換えることができることだと思う。「それはどういうことか」という自問が必要になる。平板に事実をとらえるだけでは何も分からない。裏読みをするぐらいの深読みが必要なときもあるし、そうしないと真実が見えないことも多い。

 ピアノでも同じことがいえる。話すこととのアナロジーとして、演奏者の役割は音楽の美しさを「伝える」ことだとすると、演奏者は音楽の意味を分かっていなければならない。何も伝わらない演奏は、演奏者も分かっていないのだと思う。モーツァルトソナタK.545の冒頭のドーミソシードレドは、ただの平板にドーミソシードレドを同じ音量で弾いていいのか。このメロディーはどういうもので、どういう情感の動きがあるのか。こんなシンプルなメロディーでも多様な可能性があることに気付く。

 音楽の場合、音だから言葉ほど明確な意味といえるものはない。しかし、これはどういう音楽なのだろう、何が伝えたいのだろう、そういうことを考えると、ただのメロディーが意味あるものだと感じられる。

 リパッティモーツァルトの演奏を聴くと、音の一つ一つに意味が感じられる。こんな心の動きを表す音楽だったんだと思わせられる。

としてはについては

 文章を書く機会、話す機会が増えると言葉について考えることが多くなる。自分の考えを正確に伝えることは難しい。

 文章を分かりにくくする原因は多くあるが、その一つに無駄な言葉の使用がある。最近気になるのは「としては」、「については」、「~際には」といった、「~は」が付く言葉だ。「としては」は、単に「は」に置き換えられるし、「については」も「は」に置き換えられる。「~際には」も「~際」で良い。

 書き言葉ですら無駄な言葉ばかりなのだから、話し言葉になると耐え難いほど無駄な言葉が増える。特に敬語だと、「~させていただきます」、「~につきましては」、「いただいて」、「~に関しましては」等々。無駄な言葉を排除したら話す時間が半分ぐらいになるんじゃないかと思う。

 話すときにも無駄な言葉を極力排除し、必要な言葉だけを使えるのが理想だ。ただ、これは、頭の中で言いたいことを明確に整理できていないと難しい。頭の良し悪しも重要だろうが、それ以上に整理された思考の枠組みを持つことが重要だと思う。

kindleで坊っちゃん 地震

1 Kindle坊っちゃん

 Kindle Fire をだいぶ前に買ったが全く使っていない。結局一冊も本を読んでいない。スマホKindle本を読めることも知っていたが、スマホで本を読むなんてと敬遠していた。昨日、手持ち無沙汰でKindle本を買って読んだ。意外と読みやすい。Kindle Fire自体はどこかにいってしまった。

 夏目漱石坊っちゃんを試しに読んだ。すぐ読める。前に道後温泉に行ったとき、宿で飲んだ日本酒だか焼酎に赤シャツというのがあった。一緒にいた知り合いが、ああ坊っちゃんの赤シャツだ、と言った。坊っちゃんを読んだことがなかったので、よくわからなかったが、坊っちゃんを読んで、坊っちゃんに出てくるきざったらしい登場人物のことを指すのだと分かった。

 テンポがよく、ポンポン話が進む。江戸っ子の坊っちゃんの言葉遣いがときどき笑える。特に内容はないが。道後温泉に言ったときのことを思い出しつつ読めた。そもそも道後温泉とどれだけ関係があるのか分からないが。思い出と関連付けると少し面白い。温泉にでも行こうか。

2 地震

 地震で大変なことになっている。今までの自分を振り返って、これはダメだなと思うことの一つに無関心がある。関心を持つこと、実際に行動すること、そういうことを敬遠していたところがある。何かに参加し活動する自分に対する妙な嫌悪感を昔から抱き続けていたが、そんなこと言っていても仕方がないなと最近思う。

 何の因果か、先月、災害復興関係の法律家の団体に入った。事実、震災の後は、法律の問題が山積みになる。救援物資を運ぶとか、瓦礫を除去するとか直接的な形ではないが、自分にできることもあるのだろう。何か大きなことができるわけでもないし、それほどの能力が今の自分にあるともうぬぼれてもいないが、やれることはやりたい。政治活動はやっぱり興味はないけれども。

夜の楽しみ

 仕事ばかりになると、自分の内面の部分の確保の重要性に気付く。忙殺されると自省する時間がなくなる。こんなことを書くと変なふうに聴こえるかもしれないが、詩的なものは生きていく上で必要と思う。詩的なものというと抽象的だが、芸術であれ、自然であれ、映画であれ、人との関わりであれ、感情を掻き立てるものがあるがないと窮屈になり、潤いがなくなる。

 現代では、詩、俳句、川柳、短歌は一般的ではないが、そうした手段を使って自分の内面を描こうとすることは、すごく人間的なことだと最近思う。散文では限界がある。どこの国でも昔から詩はある。現代で詩なんていうとどこか気恥ずかしいものに聴こえるが、本当はそんな特別なものでもなく、心の表現手段として普通の自然なものなのだろうと思う。たまに詩を読むが、確かに、心に沁み入るものもある。

 最近は読書もまたするようになった。寝る前に少し読む。今は、ナタリア・ギンズブルクの「ある家族の会話」という本を読んでいる。次の表現は、誰でも共有できるあの懐かしさの感覚を上手く表現した文章じゃないだろうか。少し長いが引用する。

「私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしひとつで充分なのである。あの遠い昔のことば、何度も何度も口にした、あの子供のころのことばで、すべてがもと通りになるのだ。『われわれはベルガモまでピクニックに来たわけではなァい』あるいは『硫酸のにおいはなんのにおい?』というだけで、私たちの昔のつながりが、これらのことばや言いまわしに付着した私たちの幼年時代や青春が、たちまちよみがえる。どこかの洞窟の漆黒の闇の中であろうと、何百万の群衆の波の中だろうと、これらのことばや言いまわしのひとつさえあれば、われわれ兄弟はたちまちにして相手がだれだか見破れるはずである。これらのことばは、われわれの共通語であり、私たちの過ぎ去った日々の辞書なのだ。それは古代エジプト人やアッシリア人、バビロニア人たちにとって象形文字がそうであったように、幾多の大洪水を切りぬけ、時間の浸蝕にも朽ちることなく、これらの辞句の中に生き続けてきた、いまはもうどこにも存在しないあるいのちの共同体の証なのである。これらの言いまわしは、私たちの家族のまとまりの大切な土台であり、私たちが生きているかぎり、地球上のあちこちでたえずよみがえり、新しい生を享けて生き続けるだろう。それがどこのどういう場所であろうと、だれかが『敬愛するリップマンさん』といえば、私たちの耳には、あの父のいら立った声がひびきわたるだろう。『その話ならもうたくさんだ。何度聞いたかわからん』」

ジャズ

 先日、とある団体の催しでジャズ・バーでジャズ・コンサートを聴く機会があった。有名なミュージシャンで、素晴らしい演奏だった。結構酔っ払っていたが、途中から、余興ということで、新人何かやってみろという流れになった。それで、ミュージシャンのサポートのもとでピアノを弾くことになり、ジャズセッションに参加した。

 最近は、時間がとれずピアノを弾けていない。家で弾くといっても八割型即興演奏だ。即興演奏って他人の曲を弾くよりも自己表現の側面が強く面白い。いそいそと一人で即興ばかり弾いているせいか、多少は即興演奏が弾ける。

 そんな状況だったので、緊張半分楽しみ半分、積極的に参加した。最高に面白かった。プロのジャズ・ピアニストが伴奏部分を担当してくれて、サポートしてくれたこともあって、酔っ払ったノリに任せてやりたい放題弾いた。ソロパートを用意してくれて、勢いに任せてゴリゴリ弾きまくった。ウケも良かった。これがまた楽しくて。

 クラシックは弾き続けることになるが、ジャズもやってみようと思った。楽しい一夜だった。

二度同じことをしない

 昨日の続き。

 複数の流れを取り扱うという意味では、ゲザ・アンダの演奏が面白い。ショパン自身の演奏について、二度と同じような演奏はしなかったという伝え聞きがある。ゲザ・アンダも繰り返しは大概違うように弾くピアニストで、面白い。

 例えば交響的練習曲の演奏は分かりやすいが、繰り返しになると二回目は内声を強調してみたり、ここにこんな音楽が隠れていたんだと思わせるような面白い趣向を凝らす(Youtubeにある演奏ではなく、シューマン曲集のCDに収録されている演奏の方が良いと思う)。ただ奇をてらうだけではなく、内声を強調する弾き方をするときでも、全体の音楽としてのバランスが絶妙。それぞれの箇所に必然性が感じられる。歌に溢れている。

 ゲザ・アンダは録音時期によって結構質のばらつきがあるが、自分にとっては理想的なピアニストの一人。

それぞれの流れに従って

 Khatia BuniatishviliのMother landというCDをよく聴く。同じCDを何度も繰り返して聴くということは久しくなかった。小品を集めたCDで、ピアノを普段あまり聴かない人こそ楽しめるCDだと思う。ドビュッシーの月の光といった有名曲も入っているし、ほとんどの曲が聴きやすい曲だ。不思議とどの曲を聴いても妙に心動かされる。ピアニストを意識して聴くことがまた多くなったが、Buniatishviliの演奏は、どれも素晴らしい。Youtubeの演奏よりもCDの方が良いと思う。

 Buniatishviliの演奏を聴いても、他の優れたピアニストの演奏を聴いても、思うことがある。それは、立体的であること。まずい演奏は、音楽が全体として平面的だ。伴奏もメロディーも同じようなレベルで演奏されてしまうと音それぞれの必然性が感じられない。

 ただ歌えば良いものではないのだろうと思う。複数の声部がある曲では特にそれぞれの旋律が独立して、かつ、自然と絡み合う必要がある。旋律には、そのメロディー自身が持つ歌い上げようとする力がある。その旋律に内在するルールというか流れ。だから、別の旋律はそれぞれに内在する方向性をちゃんと示さないといけない。それは、技術的にいえば、音の長短、レガートの程度、音量、音色であったりする。メロディーそれぞれがお互いの領分を守って、かつ、お互いに浸透しあうような関係に立つと、立体的で自然な演奏になる。お互いに領域侵犯し合うと、バランスを欠き、平面的になる。