読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BUHI

いろいろ

問いの方向性

 かなり久しぶりに連絡を取った友人と話した。話す中で、ここしばらく雑念が多すぎる、答えようのない質問ばかり浮かぶ(なぜ、なにのために)なんていう話をしていた。実際にそうで、ここしばらくずっとそんな考えばかりが頭を占めていた。

 なぜとか何のためにという問いは難易度が高い質問だ、と前置きをした上で、そうした抽象的な問い、意味を問う問いをするとき、実のところ、最初から自分には、大きな期待があるんじゃないの、と指摘された。「なぜ」とか「何のために」とか問いつつ、その問いには、何を知りたいのか、その答えから何を聴き取りたいのかという思い・期待が先行する。その問いに答えに何を期待するのか。君はそもそもその問いの答えに何を期待しているのか。

 そんなことを言われてぐうの音も出なかったが、同時にそうかもしれないなと思った。

新年

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 昨年は慌ただしく時間が過ぎ、結局ペースをつかめなかった。今年は周りに振り回されず自分のペースを維持したい。あれこれと抱負みたいなものを考えたが、書くことのほどでもない。

 年末年始は何もしなかったので、本ばかり読んでいた。何冊か面白い本があった。一番印象的に残ったのはウェルズ・タワーの「奪い尽くされ、焼き尽くされ」で次にドストエフスキーの「死の家の記録」だ。新年早々縁起でもない題名だが・・・

 「奪い尽くされ、焼き尽くされ」は、不満たっぷりの現代人を描いた短編集でロクでもない話ばかりが続く。感傷的でロマンチックな感性はひとかけらもない。そこそこに不幸せで投げやりでイライラした現代人のやるせない一コマが描かれる。それだけなら何も面白くないが、全編通して渇いたユーモアに満ちていて、いちいち面白い。腹を抱えて笑うといった類のものではないが。何がというわけではないがこれぞアメリカ文学と思える。翻訳も良いと思う。

「僕の継母は水のない噴水のところにいて、映画撮影をしている若いクルーを見ていた。僕はティータンクを父の足元に置いて、小走りで彼女のところに言った。久しぶりに会ったルーシーは、一段と疲れて、老けていた。彼女を見て、『ご婦人』という言葉がまず心に浮かんだ。少なくなってばさついた髪、しみが浮いた頬、カチャカチャ音を立てるブレスレットの数々と口紅、口の周りの細いしわに漏れ出している不穏なサンゴ色のファンデーションの色合い―それらをまとめる言葉だ。右目は血走っていて、涙が溜まっていた。僕たちは抱擁した。寒いのに、彼女は薄手の黒いトップの上にラメの入ったショールをかけているだけで、彼女の硬い腕に走る鳥肌が感じられるくらいの薄着だった。」

 何も特別な部分ではないが、こんなやけに毒々しい冷たい目線の描写が多い。

 ウェルズ・タワーの他の本がないかと調べたがこれ一冊だけらしい。もっと読んでみたいが、かなり時間をかけて書くタイプの作家らしい。長編を執筆中とのことで、出版されたら必ず読みたい。

言い換え

 前にもちょろっと書いたことの続き。

 音楽表現で解釈について考えたことがあった。今考えると言い換えという表現が一番しっくりくる。My name is Bobという文章があって、英語が分からなければ意味のない言葉の羅列だが、文法が分かっていれば「私の名前はボブ」という意味だと分かる。しかし、こんな風に個別個別には意味を持たないものを連関させることは、もちろん、芸術的な解釈ではない。

 言い換えは、意味を理解し、その意味を別の表現に改めるという積極的な働きがある。詩や美しい文学表現だって言い換えだ。単なる現象を観察のレベルで留めずに芸術的な表現に言い換える。ここに芸術的な解釈が生まれる。絵画でも同じだ。見えるものをどう言い換えるか。

 言い換えるには観察するだけでも説明できるだけでもいけない。さらに深い意味・感覚が分からないといけない。これは一見このように見えるけれども、本当はこういう意味・感覚なんだ、という実感がないと芸術的な言い換えはできない。芸術家であったり表現者であったりあるいはその時代の精神によってとらえようは違うだろう。しかし、これは・・・というものなんだ、という実感がないと深いレベルでの言い換えはできない。なぜなら、その人は、目の前に見えるものより先のことは見えていないからだ。表面を超えた向こう側を見たと思い、それをなんとしてでも表現したい、露わにしたいと考えるときに、芸術的な解釈が生まれる。

 このような実感や理解は、究極的に言えば思い込みだろう。時代の空気と勝手な個人的な経験と個人的な美意識から、そういうものなのだと信じているに過ぎない。ただ、そういうものなくして美的な表現は生まれない。同じことは鑑賞者にも言えて、そういうものがなければ、そもそも表現(芸術というには狭いので)を楽しむことはできない。「そうそう、そういうことなんだよ」とか「そういうことなのか」という独特の感動を持てない人には芸術なんてどうでもいいだろう。

 ピアノ音楽、特にクラシック音楽だと楽譜があってそれを再現するという特殊性がある。最初からできたものを表現する、という点だ。ただ、同じことは言える。

 ただ単に和声分析をするとか、モチーフの使われ方を図式的に理解できるとか、楽曲構造を分かっているとか、それだけで解釈は生まれない。この音楽は、この旋律はこういうものなんだ。そういう実感があれば、いかようにも表現できるんじゃないだろうか。

 もちろんその前提として、理解する道具としての理論、表現するための技術は必要だ。ただ、理論だけでも技術だけでもダメだ。ここの旋律は本当はこのように聴こえるべきだ、と楽譜に書かれたことの意味を理解し、自分がそうであるべきと考えるものに言い換えることができるほどの理解・実感があって初めて、まともに解釈と呼べる解釈が生まれるんじゃないかと思う。

 

モー モー モーパッサン・・・

 最近、寝る前に本を読む。おかげで睡眠不足気味だ。長い本は読まない。最近の小説も読む。ただ、頭には残る本は今のところない。

 モーパッサンの脂肪の塊を読んだ。登場人物の「脂肪の塊」が馬車の中で持参した料理を振る舞うところで、読むのをやめていた。以来、脂肪の塊=馬車の中での食事というイメージがあった。昔の小説に出てくる食べ物って、おいしそうに思える。この脂肪の塊では煮凝りが出てくるが、妙に食べたくなる。

 ドストエフスキーの小説の中でもカツレツが出てくるシーンがある。公務員が誰だかがカツレツを食べる。カツレツを食べる機会自体が少ないが、カツレツ、カツレツと続くと、たまらなくおいしそうに思える。小説ではないが、ヴィクトール・フランクルの「夜の霧」に出てくるパンでも、極限の空腹で食べるパンとはいかほどのものかと想像する。いっそのこと3日ぐらい断食しておにぎりでも食べるか。

 本題の脂肪の塊。読了して、歴史に残る意味が分かるように思えた。なにぶん、人の嫌な部分を描き出すのが上手い。たった数日の出来事で嫌な部分を皆こってりと絞り出される。

 かといって悪人は登場しない。悪徳の金持ちの清き心を持った売春婦という構造ではないと思う。売春婦である脂肪の塊にしろ、もったいぶった伯爵にしろ、キザな革命家気取り(こいつが一番気に障るのだが)にしろ、どれも取り立てて悪人でも善人でもない。脂肪の塊が清い心を持った人間かといえばそうでもない、というより、この長さでは分からない。かわいそうといえばかわいそうだけれども、同情心はそれほど沸かない。

 モームサミングアップの受け売りになるが、凡人は、一貫性を欠く(だからこそ、凡人を観察するのは面白いし、一貫性のある偉人はつまらない、とモームは言う)。一貫性を欠くがゆえに、ときに残酷であったり、ときに親切であったりする。要は気紛れだ。作中の伯爵も、この小説だけ読めばどうしようもない人間に映る。が、彼の人生を全人生を眺めれば、善人であったときもあるのだろう。結局、その場その場の空気や雰囲気で悪人にも善人にもなる。一貫した善人も一貫した悪人も、まずいない。数限りなく書かれたテーマだろう。

 厭世的に世の中を眺めれば、悪いところが目につく。そんな部分のエッセンスを煎じ詰めれば、脂肪の塊の世界観になるだろう。これも一つの真実だと思う。これほど嫌な感じに書かれると、否が応でも人間の嫌な部分に気付かせてくれる。

 この本には共感できる登場人物が登場しない。中心人物はいない。いるのは普通の嫌な人々と哀れな脂肪の塊。脂肪の塊に同情して、共感して、悲劇的に考えるのは能天気に過ぎるように思う。10年前だったらそう思ったかもしれないが。

 「そうそう、そんなもんだよ、人間って。」などと偉そうに同意しそうになりつつ、「君にもそういうところあるんじゃないの」とそのまま自分にブーメランで帰ってくる。そんな皮肉のきいた本でした。

 

 仕事柄、他人に文書を書くことが多い。事務的な文書なので書き出しはあまり書かないが、少し冷たいかと思い、季節に関連した書き出しを書くことが増えた。最近は、「秋めき」という言葉をよく使っていた。秋めき、あきめき、アキメキ、メキメキと擬音がしそうで妙に語感を気に入っていた。が、もう秋めき終わり、秋になった。秋になると調子が良い。

 一方、いかに夏が嫌いかを再認識した一年だった。よりによって、刑事の厄介な事件がこの夏は多く、遠方まで面会に行くことが多かった。重い鞄をぶら下げて、電車を乗継ぎ、汗だくでひーこらと行く。

 行ったら行ったで、ロクなことはなかった。散々に言われ、我慢に我慢をしていたが、堪忍袋の緒が切れ、とガラス越しで不毛な言い合いをすることもあった。結局、最後は、謝罪を受け、よろしくたのんます。とんだ茶番だ。ただ、意外と同情能力が高いのか、スムースに行きだすと妙に同情し、熱心に動き回った。我ながら驚いた。

 話が戻って、秋になると調子が良い。びっくりするぐらい気分が晴れる。忌々しい夏が終わると、こんなに気分が晴れるのか。ちょっとピアノを聞いたりする。帰りしなに空を見たりする(徒歩で通勤している)。

 心に余裕ができると、忙殺された場合とは意味の違う考え事が浮かぶ。忙殺されるときは、それこそ考え事ばかりだけれども、それらは主に脳みそのスペースを食い荒らす類のもので、自由な思考を奪う。そういうのではない。心の余裕ができると空想・妄想・抽象的な考えが増える。

 前に「ストーリー」の話を書いたが、今考えるといいところまで考えれてたかと思う。途中で胡散臭い本を読んで考えを改めかけたことがあったが、必然性・ストーリーの話は、わりと普遍的な問題だと改めて思う。

 ほとんど記憶にないが、サルトルの嘔吐の中で、ある女が「完璧な瞬間」について述べる箇所があるが、今思えばストーリーの話にそのまま関わるように思う。断片的で、偶然的で、意味のないように思える現在に意味を与えようとする営み。現在では未来も見えず、過去は過ぎ去るだけだから、現実では、誰もが物語の主人公に振る舞うようにできないが、必然性を求めるのは自然なことだと思うようになった。それを以前を胡散臭いの一言で断じたが、それだけではないように思う。

 もう一つ。最近、考えれれば考えるほど現代という時代が嫌になってきた。老人が昔は良かったと思うようなものと似たようなものかもしれないが。現代ほど物事が表層的に分かりすぎてしまう時代はなかったと思う。また、自分をこれほどにまで相対的にとらえるようにのぞんでくる時代はなかっただろう。

 いずれも暇なときに書きたい。

 あとは、モームサミングアップを寝る前に読んでいる。何回も読んでいるが、サミングアップの圧倒的安心感。しかし、この本はなぜか頭に残らない。

ave maria

1 ave maria

 一日、10分・20分ぐらいアヴェ・マリアの練習を続けた。8割・9割ぐらいは暗譜できた。どこにメロディーがあるのか、跳躍を伴う装飾音、3連符の絡みの部分を除けば難所という難所はない。全体を通せば難しいことに変わりはないが。全音の楽譜を使っているが、結構間違っていたり、三連符とクロスリズムになるところの表記が適当であったりと最初は若干苦労した。

 この曲は楽譜とおりに音を鳴らしただけではつまらなく、どうメロディーを歌わせるかにかかっている。ただお世辞にも歌いやすいようにメロディーが配置してあるとは言い難く、そこが苦労する。3週間後に弾くが、それまでなんとか形にはできるか。

 

2 メトネル

 久しぶりにメトネルを聴いた。ソナタ三部作の1番。「ピアノの」作曲家という意味では、ショパンが最高・最大の作曲家だと思うが、ショパンの後継者というべき作曲家は誰かというと難しい。ラフマニノフは違うと思う。ショパンから連なるピアノ技法を突き詰めたという意味ではゴドフスキーで、ショパンの路線で独自の発展をしたという意味ではメトネルショパンの後継者というべきじゃないかと個人的に思う。

 

意味は言い換え

 以前から、怒る人に感心を覚えることがあった。どういう人かというと、自分には全く理解できないポイントで怒る人だ。そうやって怒っている人の話を聞いてみると、僕からすればどうでもいいと思っていたことがその人にとっては侮辱・嘲笑の意味を持つなどという。それが許せないから怒る、というのだ。

 僕にとっては極めてどうでもいいと思っていたことがその人にとっては身体を震わせるほどの打撃力を持つ意味を持つ。おお、そこで怒るんか、と感心する。なぜかといえば、ここには高度の知的作業があるように思えたからだ。例えばだが、Bが「いやあ、A君はオシャレだね。」という言葉にA君がなぜか怒ったとする。仮に、「A君はオシャレだね」→本当はオシャレと思っていないのに、でまかせを言っている→でまかせを言ってBは俺(A)を馬鹿にしている→Bは俺よりも立場が上だと思っている、なんていう思考過程があったとする。それなりに高度な知的作業ではないか。

 こういう思考過程を考えると、意味というのは言い換えだと思う。単なる事実は無色透明だが、それに解釈を施して言い換えることによって事実が意味を持つ。怒る人は、他人が見過ごしてしまいそうな細部を言い換えて自分を怒りに追い込む。

 ただ、よくよく観察すると、短気な人はそんなに高度な知的作業をしているわけではない。劣等感、コンプレックスといった負の根本があって、それらが、プログラミング初心者で習う「Hellow World」並になんでもかんでも自分の怒りを刺激する方向に変換・言い換えしているに過ぎないことが大半だ。結局、短気な人は別に賢いわけでもなく、ただそういう思考パターンなだけかもしれない。まあ、それはそうだろう。

 ただ、この言い換えの能力の乏しい人はいわゆる鈍感な人だ。一般的には頭の悪い人だ。極めて乏しければ、間抜けというやつだろう。ただ、頭が悪いといっても、意外と学歴の高低は関係ないように思う。それなりの学歴を持っていてもこの能力が乏しい人は多い。いや、逆に、この言い換えの能力の高い人の方が珍しい、というべきか。

 シャーロック・ホームズが初めてジョン・ワトスンに会ったときに、ワトスンの風貌を見ただけで、ワトスンがアフガニスタンから帰ってきたことを言い当てるという話がある。ホームズは、その思考過程を一応説明してくれるのだが、小説の中の話といえど驚嘆すべき内容だ。一般人では見落としてしまいそうな細部に意味を与え(細部の事実を意味ある言葉に言い換え)、そこから得られた意味ある情報をもとに論理的に推理する。

 言い換えのパターンはその人の性質がそのまま現れる。自信のない人、傲慢な人、嘘つきな人、やましいところがある人、それぞれ言い換えのパターンがあるのだろう。自分の思考過程を辿ってみても、驚くべきほどに、怪しげな思考パターンに支配されていることに気付く。

 こういう自分の型にはまった考え方をしている限り、見えないことが多くある。ホームズのようには無理かもしれないが、もう少し理知的に考えたいと思う。ただ、こういう知的作業は予想以上に頭を使って疲れる。だから心に余裕がないときはできないし、心に余裕がないときこそ自分のいつもとおりの思考パターンで考えてしまう。